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共有地をつくる 〜わたしの『実践私有批判』〜

更新日:5月10日



valley's booksでは、SHIBUYA valley producerの清水麻衣が、好きな本をレビューしていきます。こちらのコーナーで紹介させていただいた本を読んでみたい方は、何か別のものとの交換を条件に、差し上げることが可能です。何か、代わりにオススメの一冊、音楽、詩集、レコードなどくださる方、私と本を交換してみませんか?お気軽にご連絡ください。

(清水の連絡先はこちら:shimizumai728@gmail.com)


今回、紹介する本は

「共有地をつくる 〜わたしの『実践私有批判』〜」(ミシマ社 平川克美著」です。

この本の中から、印象に残った以下4つの項目について、SHIBUYA valleyでの取り組みを交えて、紹介していきます。


目次

1、汚れの許容

2、定住生活者のその日暮らし

3、共同体のジレンマを解くための共有地

4、人称をもたない


1、汚れの許容

この本の冒頭は、こんなエピグラムからはじまる。


 人類が一つの場所に定住しなかった大きな理由の1つは、「疫病」にあった。

 共に生きるとは、ある程度の「汚れを許容」するということでもある。

 どこまでも純潔を求めることから差別が生まれる。


狩猟採集民だった人類にとって、定住は、さまざまな疫病、寄生虫など多くの障害をもたらすものだったらしい。最初期の国家の大半は、疫病や黒死病のような流行病によって崩壊していった。当時の狩猟採集民たちは、疫病に苛まれたら、その土地から離れればよかった。ホームレス、被差別部落、村八分。こういった概念は、非定住民の中には、おそらく、なかったものだろう。

「汚れを許容」するとは何だろう。コロナとは何だろう。コロナを許容するとは何だろう。現在、定住生活を行う私たちは、純潔を社会に求め続けている。

汚れを許容する「共有地」の在り方は可能なのだろうか。

今月、SHIBUYA valleyではSafer Space展というアートイベントを実施する。

Safer Spaceとは、様々な社会的背景を持つ人が集まる場において、互いをできる限り尊重し、暴力や差別を最小化し得る空間を構築していくための、終わりのないプロセスをいう。本来、汚れていないものを「汚れ」と言ってしまっていないか。

Safer Space展の取り組みも通じて、SHIBUYA valleyでは差別や暴力を容認しない空間づくりの方向性を模索していきたい。


2、定住生活者のその日暮らし

続けて、平川氏は、定住生活を行う人類に対して、こんな問いを投げかける。


 人間だけが私有し、退蔵し、不安定な未来に備える準備を怠らない。

 しかし、もし人々が「その日暮らし」でも安心して生きていけるなら?


私有の反対は無一文ではなく、「共有」だと平川氏はいう。

私有を辞め、共有地をシェアしながら安心して生きられる「その日暮らし」。

それは、ある意味で、私の理想かもしれない。

SHIBUYA valleyのコンセプトは、訪れる人々の好奇心を基点に、戯れ遊び、平凡な日常の大いなる豊かさを享受し合う生活の実験場だ。

すなわち、SHIBUYA valleyは私有地ではなく、訪れる人々が戯れ遊ぶ共有地を目指しており、「その日暮らし」の屋上から生まれてくる平凡な豊かさと偶然性を楽しみながら、今に至っている。

私有を降りることで、様々な人が屋上を訪れるようになり、多種多様な遊びがここで生まれ、それが現在進行形で続いている。

これは、計画性を重視していたら経験できなかったことであり、「その日暮らし」だからこそ、毎度訪れる予想外の感動が大きい。

これはある意味、無目的な漂泊生活を送っていた時の感動とも非常に似ている。

定住しながら、漂泊しているような気分を味わえるのが「その日暮らしの共有地生活」かもしれない。


3、共同体のジレンマを解くための共有地

平川氏は、共有地が持つ「緩衝帯」としての機能について、以下のように語る。


 緩衝帯とは、2つの異なる社会のどちらからも隔てられているがゆえに、  どちらの社会の規制も法も強制も及ばない場所

 二者択一の問題を、程度の問題へと変換できる場所


 野生と文明が共存していくための緩衝帯

 非武装地帯としての金銭交換所、江戸期の駆け込み寺、市庭のような無縁の場所


個人は、さまざまな一面を持っている。

家族、仕事、出身地・・・

そういった社会的な属性・肩書きから隔てられた緩衝帯としての居場所。

そこでは、誰かと争う必要も、強がる必要もない。

レッテル貼りからではなく、一人一人が、いち個人として尊重される。

SHIBUYA valleyも、そういった緩衝帯のような空間をイメージして、これまで運営してきた。 渋谷という都会のど真ん中にありながら、渋谷的ではない人、渋谷に似つかわしくない人も、居心地良さそうにここを出入りしている。

閉所恐怖症の人、人混みが苦手な人、自然が好きな人・・・

一方で、渋谷的な人も、出入りしている。

ラッパー、ギャル、アーティスト、ミュージシャン・・・

こうして、普段、交わることのない人々の緩衝帯のような共有地になりつつある。


4、人称をもたない

共有地について、平川氏は


 人称を持たず、誰も所有権を主張せず、

 共同体メンバーおよび、共同体の外部のものに開かれた「場」


を共有地だと語る。

この「人称を持たない」という言葉が、個人的に胸に響いた。

SHIBUYA valleyも、まさに「人称を持たない」場所であったからだ。

私個人の漠然とした屋上スペースへの思いはあれど、さまざまな人がこの場所に持ってきてくれる好奇心や遊び心によって、空間は千変万化してきた。それは、遥かに私の想像を超えたものばかりであった。

共有地運営は、「人称をもたない」のが一つのキーではないだろうか。

それが、「個人」という人間の枠組みを大きく超えるものを生み出す力に繋がっている気がする。


「勧進聖」という存在をご存じだろうか。

勧進聖は、遊行漂白的生活を営む僧徒で、遊行しながら寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に仏教を説き、その費用を奉納させる役割を担っていた。芸能に堪能な者が多かったという。

この勧進聖について、本著では網野善彦の以下の言葉を引用している。


 さまざまな縁で対立し、あるいは結びあう有縁の人々から喜捨を得る勧進聖は、

 それによって縁の生ずることのない「無縁」の原理を身に付けなくてはならなかった


この下りを読み、勧進聖は、共有地のオーガナイザーに適した人物だと感じた。

血縁、金銭、肩書きなどの利害関係を持ち込むと、共有地は成り立たない。

あらゆる利害関係から「無縁」であること。ここでも、ある意味で「人称をもたない」ことが大切になってくるかもしれない。

本著に出てくる平川克美氏の経営していた本屋が、平川氏が勧進聖となり、喜捨によって運営継続が決まる話の下りは、とても感動的なエピソードだ。ぜひとも、本書を読んでもらいたい。


全体を通して、この本は、私が言語化できていなかった理想的な暮らしの在り方を提示してくれていたように思う。

私有をやめて「共有地」をつくることで生まれる日常は、「私」という枠組みを遥かに超えた豊かな日常生活を送る一歩につながると、SHIBUYA valleyの活動を通して、日々、私は実感している。

本書の中に出てくる共有地のようなビル一棟運営の話も非常にわくわくした。

いつか、屋上運営をやめる時がきても、平川氏のように「その日暮らしの共有地生活」を送る生き方を、引き続き実践していきたい。





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